Share

もっと甘えて 08

Penulis: あさの紅茶
last update Terakhir Diperbarui: 2025-04-10 04:56:28

すうっと息を吸ってから、ポロン……と鍵盤を叩く。とたんにピアノの世界に引き込まれるような感覚に、春花は胸を震わせた。指が鍵盤に吸い付くように動いていく。誰のためでもない、自分のために弾くピアノ。音楽の世界は心地良い。

普段のレッスン時の「春花先生」とは違う、ピアニスト山名春花がそこにはいた。

「すごい、山名さんってこんなにピアノ上手いんだ!」

「やっぱり先生ってすごいのねぇ」

感嘆のざわめきが起こる中、葉月が静に耳打ちする。

「最近山名さんの顔色がいいと思っていたんだけど、きっとあなたのおかげなのね。あなたと一緒にいるからとても幸せそう」

「それならよかったです。でも俺の方が春花と一緒にいて幸せなんです。店長さん、これからも春花をよろしくお願いします」

「こちらこそ。山名さんには期待してるのよ。というわけで、山名さんの次はピアニスト桐谷静が一曲披露していただけるかしら。一曲でも二曲でも、飽きるまで弾いてもらって構わないんだけど」

「なかなかハードですね」

「ふふっ、商売上手って言ってほしいわね」

葉月は不適に笑い、静は苦笑する。とても雰囲気のいい店舗なのはやはり店長の葉月のリーダーシップの賜物で、そんなところで働いている春花に以前「辞めたら」などと軽はずみに口にしてしまったことを、静は改めて反省した。
Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi
Bab Terkunci

Bab terkait

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   もっと甘えて 09

    暖かなギャラリーに盛大な拍手で迎えられながら、演奏を終えた春花はほうっと胸を撫で下ろした。春花はワクワクするような懐かしいような、不思議な気分だった。観客のいる中でピアノを弾くのは何年振りだろうか。高校生の時の、発表会前のドキドキワクワクした気持ちが呼び起こされたかのようだった。静と目が合うと、ニコッと微笑まれて安堵する。「すごくよかった」「ほんと? 次は静の番だよ」小さくハイタッチをして、交代をした。静の演奏が始まると再びしんと静まり返る。綺麗で繊細なピアノの音色が耳に心地よく響いて、春花はふわふわと海の中を漂っている気持ちになった。静の実力は知っているはずなのに、いつ聴いても心に染み渡って美しい。感動すら覚えるその演奏はやはり圧巻だった。「春花」「はい」「トロイメライ」手招きされて、恐縮しつつも静の隣に座る。「いくよ」すうっという呼吸音で鍵盤を弾く。一体感の生まれる二人の演奏は観客たちの心を掴み、その音色はしっかりと刻み込まれたのだった。「やっぱプロは違うわ~!」「でも山名さんも凄かった~!」静の生の演奏を聴いた同僚たちは口々に感想を言い合う。それは静を褒めるものだけでなく、春花の存在感さえも確かなものとして彼女の評価を上げた。「店長、いろいろとありがとうございました」「こちらこそ、いい演奏を聴かせてもらったわ。ありがとう山名さん。桐谷さん、本当にタダでいいのよね?」「こちらが無理言って演奏させてもらったんですから、お金なんて取りませんよ。CDまた平積みしていただけると嬉しいかな」「もちろん、大々的に宣伝しますよ! 今日でファンになった子たちも多いみたいだしね」葉月は、未だ演奏の余韻に浸りながら興奮気味の社員たちに目配せをする。 そんな同僚たちの姿を見て春花は嬉しさでいっぱいになり、静は感謝の気持ちでいっぱいになった。楽しく心穏やかな時間は春花と静に活力を与えた。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-11
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 01

    いつも通り静が春花を迎えに行ったある日のこと。 店の前で春花を迎え、すぐ目の前の駐車場へ向かおうと歩を進めた時だった。「おい、春花。いいご身分だな」ひどく冷たいドスの聞いた声が横から耳に突き刺さり、二人はそちらに視線を向ける。「……高志」そこには髪を乱暴に掻き乱した高志が、春花と静を睨み付けるように立っていた。「なるほどな。男がいたからそっちに逃げたって訳だ」「違っ……」「春花に何の用だ。ストーカー被害として警察に付き出してもいい」静が春花をかばうように前に出る。そんな静を見て、高志はますます苛立ったように声を張り上げた。「人のもの奪っておきながら何言ってんだ」「春花はものじゃない。さあ、警察を呼ぼうか」その瞬間、高志はその場に崩れ落ち、先ほどの勇ましい態度が急変したように弱々しい声を出す。「春花、俺は春花がいないとダメなんだ。なあ春花、やり直そう。アパートも解約しないでくれよ。俺、お前がいないと死んじゃうよ」懇願するような態度は春花の気持ちをグラグラと揺らがせる。春花だってもう高志からの呪縛からは逃れているため簡単に心を持っていかれることはないのだが、わずかながらの罪悪感が動揺として現れた。そんな春花の心をピシャリと断ち切るように、静が凛とした声で春花の背中を押す。「聞かなくていいよ、春花。さあ、車に乗って」「待てって、春花!」高志の騒ぐ声に、道行く人が腫れ物でも触るかのように遠巻きに見たり避けたりしていた。やばい奴には関わりたくない、誰もがそう思い怪訝な表情をする中、春花だけは去り際に高志をチラリと見た。「え……?」ギラリと光る鋭利で気味の悪い輝きが目に飛び込んだ瞬間、春花は無我夢中で静を押し倒した。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-12
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 02

    「っ!」「ぐっ!」脇腹に鋭い痛みが走り、春花は体制を崩しながら倒れまいと必死に手をつく。ぐきっという鈍い感覚に顔を歪めるが、脇腹の痛みの方が強く意識を保とうとするだけで精一杯だ。静は春花に突き飛ばされるまま、道路にごろりと転がる。「キャー!」誰かの悲鳴と共に静が見た光景は、苦痛に顔を歪ませながら地面にうずくまる春花の姿だった。「春花!」抱き寄せようと手を添えると、ぬめりとした感触に戦慄が走る。静の手には春花の血がべっとりと付いており、一気に血の気が引いていった。「春花しっかり!」「静、ケガは?」「俺は何ともない」「……静が……怪我しなくてよかった。ピアニストは……怪我が命取りだもんね」わずかに微笑む春花に静は唇を噛み締める。「何言ってるんだ! 今救急車を!」静の呼び掛けに、春花は青白い顔をしながら小さく頷く。静の手のひらから春花の血がこぼれ落ちる。止めたくても止められない、赤い血がぼたぼたと地面を染めた。「春花! 春花、大丈夫だから」「……静が無事なら、それでいい」「よくない! 今救急車が来るからな!」ザワザワと恐怖に怯える通行人たち。 勇気ある者たちに取り押さえられながらも奇声をあげ続ける高志。 騒ぎに気付いて店を飛び出してきた葉月。 そして祈るように春花を抱きしめる静。泣きそうな静の顔が春花の視界に入る。(ああ、静に迷惑かけちゃった……)やがて救急車とパトカーの近付くサイレンの音と共に、春花の意識は混濁していった。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-13
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 03

    春花の脇腹の傷は、血が流れた割には思ったよりも浅く、命に別状はなかった。グキッと曲がった左手首は幸い骨には異常がなく、捻挫との診断だった。だが数日の入院を余儀なくされた。ベッドに横たわる春花の左手首には仰々しく包帯が巻かれており、静は悲痛な面持ちでそっと手を添える。「痛みはある?」「薬のおかげかな、今は大丈夫」「春花、ごめん。俺が守らなきゃいけなかったのに」「ううん。静のせいじゃない。元はと言えば私が変な男にひっかかったからいけないの。そのせいで静に迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」「春花のせいじゃない」「いいの。静が無事だったから。私のせいで静がケガしたら、それこそ耐えられなかったよ」春花の左手に添えられた静の手の上に、春花は右手を添えた。痛々しいほどに健気な春花に静は胸が苦しくてたまらなくなる。守らなきゃいけなかった、守るべき存在だった春花に逆に守られてしまった。自分だけ無傷なのが情けなくて悔しくてたまらない。「ねえ静、刺されたのは脇腹だし捻挫したのは左手だから、利き手は普通に使えるのよ?」「ダメだ。俺がすべてやるから」運ばれてきた夕食を前にして、春花は戸惑いを隠せないでいた。静が箸を渡してくれないのだ。「ほら、口開けて」「恥ずかしいから自分で食べ……むぐっ」有無を言わさずこれでもかと過保護に取り扱われ、成すがままの入院生活となったのだった。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-14
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 04

    春花は無事一週間で退院でき、街も人も何事もなかったかのように元通りの平穏を取り戻していた。だが春花だけは違う。隣には静がいて、店には葉月がいる。まわりの景色も何も変わらないのに、春花の心だけどこかに置き忘れてきてしまったように感じていた。仕事復帰も、葉月からゆっくりでいいと言われている。そんな優しさが余計に心苦しい。春花にはたくさんの生徒がいたのだ。今回の件で、店にも生徒たちにも迷惑をかけてしまった。物騒だからとレッスンを辞める人もいたと聞き、その責任の重さに胸が潰れそうになった。「店長、私……」差し出した封筒。 退職届と書かれた文字を見て、葉月は受け取りを拒否した。「悪いけど認められないわ。もし山名さんが責任を感じて店に迷惑をかけたと思うなら、今まで以上に働いてちょうだい。簡単に辞めるなんて言わないで。今通ってる生徒さんたちを裏切ることになるのよ。みんなあなたを待ってるんだから」「でも……」「責任を感じて辞めるっていうのだけはやめて。もし山名さんに責任があったとしても、それで辞めさせるかどうかの判断は店長である私が決める」「……はい」「まあ、それとは別で、あなたの今後の人生を考えて辞める選択をするなら、その時はきちんと受け入れるわ」葉月の言うとおり、今の春花の気持ちは迷惑をかけた責任を取ろうとしか考えていない。これからの自分のことなど考える余裕がないのだ。それほどまでに今回の事件は春花に罪悪感を植えつけていた。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-15
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 05

    ◇久しぶりに静のコンサートが開催されるということで、春花は招待者として会場に足を運んだ。今回はピアノとバイオリン、フルートのアンサンブルだ。自宅でピアノの練習をしている静の姿を何度も見てきた春花だったが、バイオリンとフルートが加わるとどんな音色になるのだろうとワクワクする。やがて会場の照明が落とされ、奏者達が舞台に姿を現した。静は黒のタキシード姿でいつも通り存在感を放ち輝いている。恋人の立ち姿が立派だと、なんだか春花が誇らしく嬉しい気持ちになった。(やっぱり静はかっこいいな。……あっ!)思わず息を飲んだ春花の視線の先には、フルート奏者である三神メイサがワインカラーのドレスを翻し、エキゾチックな雰囲気でひときわ異彩を放っていた。(あの人、前に静と噂になった人だ……)思わず彼女を凝視してしまう。今日のコンサートがアンサンブルで、フルート奏者が三神メイサだと静から聞いていた。それに対して春花は何とも思わなかったのに、いざ彼女を目の前にすると少しばかり心が落ち着かなくなる。彼女とはなんでもないと聞いているし、静の恋人は自分で愛されているという実感もあるのに、それでも気になってしまう心の弱さに自然とため息が出てしまう。(存在感がすごいんだよね……)メイサの自信に満ち溢れた表情からは、フルートにかける情熱さえも読み取れるようだ。ピアノ、バイオリン、フルートの綺麗な旋律はあっという間に観客の心を掴んでいき、春花の雑念も消え去っていった。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-16
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 06

    静から楽屋で待っててと言われていた春花は、演奏終了後に関係者として中に入った。静の名前が貼られた楽屋を前にノックをしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられ振り向く。「あなた、静の彼女よね?」ワインカラーのドレスに身を包んだ三神メイサが、春花を値踏みするかのように立ちはだかった。「あの……」「あなたに話があるのよ。ちょっと来て」「えっ、あのっ!」有無を言わさず、メイサは春花を引っ張って自分の楽屋に連れ込んだ。パタンと閉められた扉はメイサの背にあって、簡単に逃げることができない。ワインカラーに負けないほどに目鼻立ちがくっきりした美人タイプのメイサは、腕組みをして春花を睨むように見下す。「あなた、静の足を引っ張らないでちょうだい」「……それはどういうことでしょうか?」「本当、能天気ね。静はこれから私と海外公演で名を馳せていくハズだったのよ。それなのに急に出てきたあなたにその夢を壊された」「海外公演?」「何? もしかして聞いてないの? 静はこれから海外でも実績を上げていく予定だったのよ。でもあなたがケガをして側にいたいから諦めるんですって」「え……」「本当に知らなかったんだ? 静はこれからもっともっと有名になる予定だったのよ。静には狭い日本より広い海外が似合ってる。海外からのオファーだってたくさんきているのよ。あなたもバカじゃないでしょう? 静を説得して。今ならまだ間に合うわ。身を引いてちょうだい」「そんな……」春花は押し黙る。メイサの話が本当かどうかわからない。静からは何も聞いていないからだ。だが静の実力なら海外からのオファーだってあるに違いないし、そもそも静のピアニストとして初の公演は海外だった。(私がいるから? 静は我慢してる?)

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-17
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 07

    三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。

    Terakhir Diperbarui : 2025-04-18

Bab terbaru

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 13

    「ああそうだわ。この機会にあなたに文句を言いたかったのよね。確かにあなたはすごい。この若さで海外公演を大成功に修めた。ピアニスト桐谷静は立派よ。でもプライベートの桐谷静のことを私は知らない。ニュースや週刊紙で報道されてることしか知らないわ。なあに、あの三神メイサとの熱愛報道」「あれは……」「違うって言いたいんでしょう? そうかもしれないわ。だって私の知ってる桐谷静は、間違いなく山名さんを愛していたもの。三神メイサに心変わりするなんてあり得ないと思う。だけどね、その報道を聞いたときの山名さんの気持ちがわかる? それに対してちゃんとフォローはしたの? してないなら、あなたは山名さんではなく、三神メイサを取ったのよ。まあ報道なんてあることないこと書くからね、誰も鵜呑みになんてしないでしょうけど。でも日本で待ってる山名さんには、とんでもなくつらいことだったでしょうね」「そんな……」静は絶句した。春花のことを愛している。きちんと言葉にもしていたつもりだった。けれどそれは本当に春花に伝わっていたのだろうか。もっともっとできることがあったのではないだろうか。春花のことを一番に考えていると思っていたのは独りよがりで、結局ピアノのことが一番だったのだろうか。一番に考えなくてはいけないものを、間違えたのかもしれない。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 12

    葉月の葛藤が、静への質問に代わる。「……どうして居場所を知りたいの? あなたたち、別れたんじゃないの?」春花からは静と別れたと聞いている。だからきちんと二人で納得しあった上での別れだとばかり思っていたのだが。静の悲痛な表情に、それは違ったのだろうかと葉月は察した。「別れてなんかいないです。俺が海外に行ったのも春花が背中を押してくれて……」「そっか、あなたたちちゃんと話し合いをしなかったのね。山名さんもバカだわ。なんでも自分で背負いこむんだから。本当に困った子よね」葉月はひときわ大きなため息をつく。辞めると退職届を渡してきた春花のことを、もう少し気にかけてあげたらよかっただろうか。そうだとしても、結果は変わらなかっただろうか。葉月は静をまっすぐ見据えて、事実を述べた。「店の前で事件があったでしょ。その事件のことを嗅ぎまわっているマスコミが店に来たの。そのときは追い返したけど、山名さんは自分のせいで桐谷静に迷惑かけたくない、汚点のない桐谷静でいてほしいって、責任を感じたみたいよ」「春花が汚点なわけないじゃないですか!」「そんなこと私だって知ってるわよ。だけど山名さんの気持ちもわかってあげて。桐谷静を誰よりも応援していたのは山名さんよ。だから自分の気持ちは押し込めて、あなたの背中を押したんでしょうね。それに山名さんの意思は固いのよ。悪いけど、私も山名さんと付き合いが長いのよ。私は山名さんの味方なの」フンと鼻であしらい葉月は仕事に戻ろうとして、もう一度静に向き合う。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 11

    何も手掛かりが掴めない静は、春花の勤め先の楽器店を訪れていた。「山名さんね、辞めたのよ」「辞めた?」素っ気なく答えられ、静は思わず語気を強める。自分の元に通う生徒たちを見捨てることができないと言っていた春花を知っているだけに、葉月の言葉はすんなりと信じられなかった。「春花のところに通っていた生徒さんたちはどうなったんですか?」「辞めてもしばらくはレッスンだけの契約で働いてくれてたのよ。でも時間をかけて生徒さんたちにも説明して別の先生に代わってもらって、今はもう来ていないわ」「それで、春花は今どこにいるんですか? 久世さんなら知っているんでしょう?」静は前のめりになる。春花の安否を確認するため葉月に電話をかけた時、「春花は元気だ」と告げられた。何かを隠しているようなかばっているような、そんな態度に違和感を覚えていたのだ。葉月は困ったようにため息をついた。もし静が春花を訪ねて店に来た場合、自分の居場所は知らせないでほしいと春花から頼まれていた。その場では了承したものの、葉月自身それが正しいのか分かり兼ねている。春花と静、二人でいるときの雰囲気は羨ましいほどにとても幸せそうに見えていた。だからこの先もずっと二人の関係が上手くいってほしいと願っていたのだ。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 10

    春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 09

    ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 08

    ◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 07

    抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 06

    「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 05

    家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。

Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status